「作者と読者の会」 2012年9月号 


  八月三十一日(金)午後六時半から文学会事務所で十二名の参加で開催。九月号掲載の風見梢太郎「四十年」を牛久保建男氏が、仙洞田一彦「悔いの記憶」を岩渕剛氏がそれぞれ報告した。司会は乙部宗徳氏。
 牛久保氏は「四十年」について、学生時代の日本共産党の活動家で民間大企業に就職した後、思想を守れずに定年をむかえた人々に活動への復帰を呼びかけるという場面を描いていることに注目していること、しかしそのテーマの作品として「四十年」を読んだ場合に、この作品が成功しているとは思えないとのべた。そして、登場人物・今津の描き方をもっと深めることや、思想を守った者対つらぬけなかった者という図式での単純なとらえ方になっているのではないかと指摘した。さらに、他の作品と共通するシーンが描かれていることについて、たいへん違和感があるとのべた。
 討論では、今津のように党を離れた人の複雑な状況や思いを作品に反映させた方がよいという点で牛久保氏に賛成する意見も出された。一方で、短編小説の一つの模範となるように書かれていて、筋立て・文章ともに読みやすく無理がなく、まとまりのある作品となっていること、あるいは、原発再稼働への国民的な怒りと反対運動が高揚するなかで、かつての仲間たちのなかから、条件が許す人については日本共産党の活動に復帰したり協力・共同して再び人間としての輝きを取り戻すことを予感させる、ヒューマニズムあふれる党の姿が「四十年」には描かれているという批評が出された。
 岩渕氏は「悔いの記憶」について、作中の老父・勝利が言う「悔い」の中味を、わかったような、わからないようなものとして、あえて書かないことで、読者に自分にとっての悔いは何かを考えさせようとしている作品だと報告した。
 参加者からは、家族の会話が生き生きしている、ユーモアがあり身につまされる話として読んだという意見と、冒頭に再稼働の記事が載った新聞があって、ここにモチーフがあるのかと思って読んだ、悔いの内容を少しは知りたかったという意見も出された。仙洞田氏は、広範な人々の間に悔いの気持ちがあれば、世の中の動きにもブレーキがかかるのではないかという考えを実験的に書きたかったと解題した。そして五月号の「チェーホフ雑感」で書いたように、書き手の仕事は「問題の解決」ではなく「提起」だという方法論を「悔いの記憶」では意識的に用いてみたと語った。
  
 (森下 敦)  
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