2019年5月に開かれた28回大会への幹事会報告です。
第20回以降の大会報告


 激動の時代と切り結ぶ文学運動の前進を
  ──日本民主主義文学会第28回大会への幹事会報告──
                             報告者 乙部宗徳


 第二十七回大会からの二年間、安倍政権は国会運営においても民主主義的な手続きを無視し、悪法を次々に成立させるなど、その暴走をいっそう加速させている。これに対して、昨年の沖縄県知事選での勝利に続き、辺野古新基地建設埋め立ての賛否を問う県民投票で圧倒的多数による辺野古新基地建設「NO」の民意が示されると共に、昨年の臨時国会での自民改憲案の提案阻止など貴重な成果も生まれている。平和と民主主義、国民生活をめぐる鋭いせめぎあいのただなかで、また、民主主義文学会にとっては組織の存続がかかるという重大な状況のなかで、第二十八回大会はひらかれる。
  これからの二年間、安倍政権は、国威発揚に「代替わり」や二〇二〇年五輪・パラリンピックを利用しながら、憲法改悪、大軍拡、生活破壊の暴走をさらに進めようとしている。市民と野党の共闘によって安倍政権の企てを打ち破り、平和と民主主義の方向に歩み出すことが強く求められている。こうした激動の時代と日本文学は切り結ぶことができているのか、そのなかで民主主義文学はどう力を発揮していくか、創造・批評の質をどう高めていくかなどについて論議を深めることが、大会の第一の役割である。
 また、前大会の幹事会報告では「文学会の組織を次代に引き継げるかの正念場を迎えている」と述べたが、この厳しい状況はさらに悪化し、二十七回大会期の実売部数は創立以来過去最低を記録した。しかし、そのなかでも、貴重な成果も生まれている。この間の運動の教訓をとらえ、新たな前進の方向を探っていくことが、大会の第二の役割となる。
第二十八回大会のこの二つの役割を果たすため、全国の会員・準会員が幹事会報告の討論に積極的に参加することを呼びかける。


一、安倍政権による民主主義と国民生活の破壊

 安倍政権は国民主権と平和主義を骨格とした憲法を蹂躙し、新しい軍国主義とファシズムを指向する歴史逆行の姿をあらわにしてきている。私たち民主主義文学運動が、この問題にどのようにして向き合っていくのかが、問われている。
 安倍政権の民主主義を破壊する姿を象徴的に示したのが、昨年十二月十四日の辺野古への土砂投入の強行であった。この暴挙に対して「民主主義が埋められる」と悲痛な声が発せられ、沖縄県の玉城デニー知事は、国民に向けて「民主主義国家としてあるまじき行為を繰り返す国に対し、共に声を上げ、共に行動していただきたい」と呼びかけた。法治主義も地方自治も踏みつけにしたこの無法な暴挙を転機に沖縄県民の怒りが、あふれるように全国に、世界に広がった。ハワイ在住のロブ・カジワラさんの呼びかけで行われた、新基地建設の埋め立て工事を二月二十四日の県民投票まで停止するようトランプ大統領に求める電子署名は二十一万筆を超え、さらに「沖縄のサンゴ礁と民主主義を守ろう」と呼びかける新たな署名活動が始められている。県民投票の結果は、埋め立て反対が七割を超え、新基地建設に明確にノーの意思を示した。しかし、安倍政権は民意を無視して工事を続行している。ただちに工事を中止するとともに、普天間基地の無条件撤去を米国に要請することを求める。
 毎月勤労統計の不正によって、アベノミクス効果をうたう景気回復が虚像であったことも浮き彫りになっている。森友学園問題に関する財務省文書の改竄、加計学園獣医学部の認可にかかわる国政私物化、南スーダン日報の隠蔽、さらに、大企業や大資産家への富の一極集中の一方で、貧困・格差が拡大し、国民生活は破壊され、日本という国の際限のない荒廃が進んでいる。出入国管理法改定、水道法・漁業法・種子法などの改悪、日欧経済連携協定承認などの強行、首相官邸による特定記者の排除、質問制限など、戦後の歴史のなかでもかつてない暴挙が連続している。安倍内閣は「女性活躍推進」を喧伝しているが、女性の議員や管理職の比率は国際比較でも著しく劣っており、MeToo運動が提起している問題についても、社会の認識は弱い。それは、『新潮45』が休刊にいたる要因となったLGBTへの差別発言に見られる、人権意識の低さと同根である。
 池澤夏樹は、世界的にみても最悪レベルの「公的教育の対GDP比率」「ジェンダーギャップ指数」「債務残高の対GDP比」をあげて次のように指摘した。
 「出産や育児、教育の現場から遠いところに地歩を占めた男どもが既得権益にしがみついて未来を食い物にしている。彼らは日銀短観四半期より先は見ないようにしている。原発のような重厚長大産業に未来がないことを敢えて無視し、女性を押さえつけ、子供の資産を奪い、貧民層を増やしている。二〇一六年の『保育園落ちた日本死ね』というブログの言葉はこの異常な国家の姿への呪詛だった」(「朝日」一月九日付)
 このような政治状況の中で、今年の夏には参議院選挙があり、早期の衆院選解散・総選挙の可能性も言われている。このたたかいのなかで、安倍政治に痛打を与え、彼らの強権の土台となっている、自民・公明の衆参三分の二体制を打ち破ることが急務となっている。
昨年の沖縄県知事選で、辺野古新基地建設反対を掲げた「オール沖縄」玉城デニー候補が、政権の全面支援を受けた候補を退け三十九万票という史上最多の得票で圧勝した。また安倍首相は憲法審査会を動かして改憲の発議を行うことに執念をもやしたが、昨年の国会では憲法審査会への自民党改憲案の提案を断念に追い込むことができた。沖縄でも憲法でも「共闘の力」が安倍政権の暴走を阻む大きな力として働いたことは、この国のファシズムへの歴史逆行を許さない方向を示したものとして、大きな展望をさし示している。
 中島京子は昨年十二月三日に開かれた日本ペンクラブシンポジウム「憲法と平和――どう考える9条」で、「自衛隊を明記する形の改憲に反対だが、憲法が変わる以前に戦争への道を開いていることを危惧する」と述べた。また星野智幸は『新潮45』のヘイト問題にかかわって、ヘイトは「憎しみの力を利用する政治的策略」であると指摘し、そのような問題に文学者が「文学は善悪の彼岸にあるのだ」として黙過することは、昭和初期に日本の戦争に加担した書き手たちの愚を繰り返すことになりかねないと警鐘をならした(『新潮』二〇一八年十二月号)。
 目先のことしか考えない政治の貧困は、高校「国語科」の「学習指導要領」改訂にみられるように、教科書が実用国語中心となり、やがて文学作品は消えて行ってしまうのではという危惧の念を生みだしている。国語教育において文学が軽視されることのないよう、声をあげていきたい。
緊迫する時代の危機のなかで、文学運動をになう日本民主主義文学会は、時代を憂える文学者たちとともに、文学四団体、文化団体などとも連携して「市民と野党の共闘」を推し進めていかなければならない。『民主文学』では、「安倍改憲案および暴走政治への緊急発言」で赤川次郎、黒古一夫など会外の文学者、知識人が登場し、二〇一八年六月十二日に行われた「米朝首脳会談」についての畑田重夫と金石範による緊急発言、笙野頼子、中沢けい、若竹千佐子のエッセイの寄稿があったが、時代の動きに強い問題意識をもつ文学者とさらに共同を進める編集を心がける。そして社会的な運動でも文学運動の真価を発揮することが、今、求められている。


二、日本文学の動向と民主主義文学運動

(1)日本文学の動向
 世界でも日本でも民主主義が危機に瀕しているなかで、多くの作家が作品や発言で政治社会批判を回避する状況がある。辺野古新基地について発言する文学者もごくわずかにとどまっている。そこには政権のマスコミ介入による萎縮も影響している。例えば木村友祐は震災後文学についてのパリでの講演で「日本の文学界の、政治的・社会的なものに対するアレルギーは余程のものだ」とあきれ、外部の異常に目をつぶり続けるなら「危険な方向へ進もうとしている政府の動きを、文学界全体で追認するのと同じことになる」とまで危惧している(『新潮』二〇一八年八月号)。
 文学の主流が政治社会の困難から目をそらす一方、現実の深まる異常と困難をさまざまに描こうとしてきた作家たちも少なからず存在している。そうした作家たちが政治社会の危機をとらえる近年の顕著な創作傾向として、ディストピアを舞台とする小説が挙げられる。斎藤美奈子は『日本の同時代小説』(岩波新書)で、二〇一〇年代は「ディストピア小説の時代」だと評したが、このことに私たち文学会は、前回大会で「未来を悲観的な時代として描き現実への批判をこめる『ディストピア』的な作品が生まれることには、原発事故の収束の見通しも立たず、民主主義や国民生活を破壊する暴走政治の果てに予想し得る近未来を描くことで、現実に警鐘を鳴らしたいという意図が見えないわけではない」と着目していた。この二年間では、政治を扱うディストピア小説がいくつも書かれたことが特徴的である。
 中村文則『R帝国』(中央公論新社)は〝党〟と呼ばれる国家党が、対外的戦争と国内の情報操作で支配する「島国」を描いて、日本政治の現実を風刺した。いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』(集英社)は小説が禁止された近未来の管理抑圧社会をコミカルに描いた。島田雅彦は対米従属を描いた『虚人の星』(講談社)につづいて、情報が権力によって遮断された社会が舞台の『カタストロフ・マニア』(新潮社)を書いた。
 笙野頼子の『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』(講談社)『ウラミズモ奴隷選挙』(河出書房新社)にはTPPへの批判が込められており、後者はTPP成立後の退廃した近未来日本を描いた一種のディストピア小説であるが、現実の政治への怒りと呪詛が生々しいものになっている。
 これらの小説は、現在の安倍政治が行き着く先を警告するものであるが、一方で安倍政治に対する国民のたたかいの到達に確信を持てず、近未来に創作の舞台を求める傾向も否定できない。前大会で指摘した「変化の予兆をとらえ光の射す現実を描くことの大事さ」は引き続き強調しておきたい課題である。
 その課題に応える一つとして、辺野古の米軍新基地建設に反対するオール沖縄の勝利が全国を励ますなか、沖縄を舞台にした作品に勢いがあった。
 目取真俊「闘魚(とーぃゆー)」(『世界』二〇一九年一月号)は、辺野古の新基地建設反対運動を、沖縄戦後の辺野古の死者の記憶と結びつけることで、基地建設反対の民意の奥深さを思い起こさせた。
 大城立裕「辺野古遠望」(新潮社『あなた』収録)の語り手は、「どうせ沖縄は日本ではない、とヤマトの国民の多くが考えている」と語り、大城貞俊の『六月二十三日 アイエナー沖縄』(インパクト出版会)の最後は、テロに訴えるしかないという結論だった。こうした沖縄在住作家の近作が示しているのは、長年の日本政府の沖縄差別に対して、もう我慢の限界を超えているという沖縄県民の怒りとフラストレーションである。
 直木賞を受賞した真藤順丈『宝島』(講談社)は、エンターテインメント作品として、米軍政下の沖縄で三者三様に生き抜く青年たちを主人公に、沖縄の米軍従属という根本問題を提起した。宮内勝典『永遠の道は曲がりくねる』(河出書房新社)は沖縄を舞台に、ウタキの老婆や精神病患者、アメリカ先住民など、虐げられてきた民の交流に未来の希望を見出すものだった。ほかに沖縄戦の孤児がボリビアにわたる池上永一『ヒストリア』(角川書店)もあった。
 平野啓一郎『ある男』(文藝春秋)は在日韓国人三世の主人公が夫婦の在り方を探求する物語に、ヘイトスピーチなど偏狭で差別的な意識が広がる現状に対する深い憂慮をにじませていた。
 雇用の劣化のなかで、若者を使い捨てにする「ブラック企業」が社会問題になったが、小説でも「ブラック企業」を告発する作品が多く生み出された。
 村山由佳『風は西から』(幻冬舎)は、恋人を過労自殺で失った若い女性主人公が、恋人の両親とともに、理不尽な大企業に対してたたかう姿を描いた。新庄耕『カトク』(文春文庫)は、厚生労働省の過重労働撲滅対策班の取り組みを描きつつ、蔓延する長時間労働とパワハラをなくしていくには一人ひとりがどうすればいいかを考えさせるものだった。これまでブラックな働き方に押しつぶされる主人公が多かったが、現状に負けまいとする主人公も描かれるようになってきているのは現実の酷さの反映と言えよう。
 東日本大震災後に描かれてきた震災小説、原発小説でも、引き続き注目作があった。
 震災後に南相馬市南部に移住した柳美里の二十四年ぶりの戯曲『町の形見』(河出書房新社)は、帰還してきた住民の声をもとに、原発事故による故郷喪失の癒えることのない悲しみを描き出した。
 この二年間の芥川賞受賞作は東北に関係する作品が続いた。いずれも震災の影を直接間接ににじませるものだった。
 沼田真佑『影裏』(文藝春秋)は、同性愛の問題もひそませつつ、震災で友人が行方不明になった喪失感を描いた。若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社)は東北出身の老女が、夫の死の悲しみを乗り越え、新しい自分らしい生き方に目覚めるものであった。ここには震災による死と別れを重ねて読むこともできた。同時受賞の石井遊佳『百年泥』(新潮社)で主人公の女性がインドで遭遇する百年に一度の洪水は、日本で続発する大規模な震災や水害にも通じるものだった。両作は、近親の死や災害に負けるどころか、逆にバネにしてたくましく生きる人々を描く点で、被災者たちの新しい人生を後押しするものであった。
 群像新人賞を受賞し芥川賞候補にもなった北条裕子「美しい顔」(『群像』二〇一八年六月号)は、先行ルポ作品との類似表現が問題になった。その点だけで少女が震災で陥った孤独と自立という主題が失われるものではないが、資料や参考文献の内容を自作にどう取り入れるかは、慎重に考えるべき問題である。
 また『おらおらでひとりいぐも』や、八十代の高齢者が南の島で資本とたたかう佐江衆一『エンディング・パラダイス』(新潮社)など、高齢者の活力を描く作品も注目を集めた。高齢化が進む日本における老いの問題は、社会と人間の真実を求める文学にとって、避けることのできない重要なテーマである。
 長崎の作家・青来有一『フェイクコメディ』(集英社)は、被爆の追体験を力にトランプ大統領の対北朝鮮との火遊び外交を転換させる物語である。現実を変え得る希望を、フェイクではなく想像力によって示したところは、ディストピア小説とは違う文学の力を発揮するものだった。
 戦争の時代を描いた長編としては松浦寿輝『名誉と恍惚』(新潮社)、奥泉光『雪の階』(中央公論新社)が、いずれも重厚な筆致であの時代を批判的に描いていた。
 このように、あまりに過酷な現実を前に、創作でも社会・政治と向き合っていこうという動きが見られるようになってきた。この動きはまだ一部であり、教育現場が改悪教育基本法のもとで、矛盾の焦点の一つとなっているのに、それを描いた作品がないなど、不十分な点もある。さらに言えば、過労死遺族にしろ、高齢者にしろ、個人的なたたかいを、よりいっそう広い国民的なたたかいと結びつけて描くにはいたっていない。現実を直視しながら、大きなスケールでこの時代の真実を描く作品が切に待ち望まれている。

(2)民主主義文学の創造の成果と課題  
 現政権が集団的自衛権の行使に道をひらく「戦争法」強行をすすめるなかで、それに反対する運動も広がりをみせた。秋元いずみ「ママ、なんになるの」は子育て世代の女性たちの行動が、「だれのこどももころさせない」を一致点とする〈ママパパの会〉の運動に広がっていく姿を子どもたちの成長とともに描き、若い世代のなかに運動がどのように根づいていくのかを自然な日常の言葉で問いかけた。
 戦争の時代そのものを描く作品も生まれている。能島龍三『遠き旅路』(新日本出版社)は、戦時中の中国におけるアヘンの栽培と流通に日本軍が関係した史実を、それにかかわった兵士の視点から描き、日中戦争の本質に迫った。加害者としての責任の自覚と、それが戦後の生活にどのようにつながっていくのかを追求することで、責任をとろうとしない勢力に対しての告発にもつながる作品となっている。倉園沙樹子「巨艦の幻影」は、巨大戦艦を建造する軍港での労働者の家庭を舞台にして、戦争の時代を生きる人びとの意識と、善意をのみこんでしまう力のありようをとらえた。とうてらお「四歳の記憶と十二歳の記憶」では、〈満州〉からの引き揚げの中途で妹と母を手にかけた深刻な経験を、八歳年上の兄と記憶をすり合わせることによって、みずからのなかで追体験した。
 これらの作品に、単に当時の状況をとらえるだけでなく、戦争の進行に疑いをもち異議申し立てのために何らかの行動を起こそうとする人びとの姿が描かれていることは見落とせない。
 「戦争をする国」づくりに向けて、国民の思想統制をはかる「道徳の教科化」が進められ、それは必然的に教育現場にさまざまな混乱を生んでいる。佐田暢子『冬の架け橋』(本の泉社)は、小学校教師たちの直面している現状を、異なる状況を設定して多面的にみつめ、個としてどう立ち向かい、よりよい学校づくりのための協同をつくるかという視点から教師の生き方を問いかける。青木資二「スタンダード」は、祖父の視点から現代の小学校での道徳教育の実情をみることで、社会のなかでの学校のもつ意味を考え、保護者と教師が連帯しながらどのように子どもたちの成長を保障していくのかを考えさせる作品となっている。
教育現場での教師や父母、子どもたちによりそって、現在の教育のあり方を問いかける作品の創造は、他の文芸誌ではほとんど見られないという状況がある。そのなかで、民主主義文学運動が築き上げてきた蓄積と成果を土台にして、こうした作品が登場しているといえよう。
 東日本大震災と福島第一原発の事故から八年が経過したが、民主主義文学は、災害後間もなくから、ことの真実と、そのなかで生きるためにさまざまな局面で力をつくす人びとを描いてきた。柴垣文子『風立つときに』(新日本出版社)は、福島から転居してきた母子と小学校教師とのかかわりを描く。管理主義の強まり、避難者を受け入れる教師の心の動きや、地域の人びとの生き方、さらには子どもたちのもつ残酷さも視野にいれ、広がりをもった作品世界をつくりあげている。たなかもとじ「大地の歌ごえ」(しんぶん赤旗連載)は、津波で娘を失い、息子も甲状腺に異常が認められた母親が、電力会社で働く夫と別居し、東京に避難して、損害賠償訴訟や原発ゼロのたたかいと結びついていく過程を軸に、原発事故の真の責任はどこにあるのかを描き出した。櫂悦子「小さき樹の言の葉」は、東京に避難してきた娘と孫とのゆきかいを、祖母の視点から描き出し、原発事故のもたらしたものの大きさをあぶりだした。野里征彦「西明かり」「海の眺め」は、地震と津波のあと過疎化と高齢化がすすむ岩手県の沿岸部の人びとの営みをとらえ、稲沢潤子「生きる」は瀬戸内海の島での原発建設に反対し続ける人びとを描いた。
 これらの作品には、苦しい状態にありながらも、それぞれの立場で一所懸命生きようとしている人びとの姿がある。また、その状況をよい方向へと変えようと、できる限りのことをしてたたかっている人たちが登場している。震災後や原発事故後を扱う作品には、ディストピア的な近未来を想定したものが少なからず見られるが、民主主義文学の作品が、悲観的な未来を突き抜けようとして、さまざまな局面でたたかう人びとを登場させていることの意味は大きい。〈あきらめないこと〉のもつ意味を、具体的な人間の姿を通して描き出すことは、未来をどう考えるのかについての示唆にもなるだろう。
 民主主義文学運動が一貫して重要な課題として取り上げてきたのが、労働現場を描くことである。労働現場における人間の尊厳をそこねるさまざまなふるまいや、そのなかで矛盾とたたかい成長していく人間の姿の描出は、文学運動が生み出してきた誇るべき成果である。田島一『争議生活者』(新日本出版社)は、自動車会社の〈派遣切り〉によって雇い止めされた労働者のたたかいを描いた『時の行路』正・続に続く完結編であり、新自由主義による日本社会の歪みを浮き彫りにし、最高裁での敗訴という結果のなかでも、たたかうことが生きることであるという、人間としてのまっとうな生き方をつらぬく主人公を造形していった。仙洞田一彦「忘れ火」は、人員整理をはかるゲーム機製造会社を舞台に、たたかうことに対するさまざまな〈揺れ〉をとらえながら、生きること、たたかうこととは何かを問いかける。東喜啓「靴底の傷み」は損害保険会社で働く若い労働者が、仕事の苦しみから労働組合の持つ意味を考え、接近する過程を描いた。大浦ふみ子「燠火」は長崎の造船所でのじん肺訴訟に加わる労働者を通して、造船所での労働の日々と組合分裂策動がもたらした悲劇を見つめた。
 風見梢太郎『崖の上の家』(へいわの灯火舎)は、研究所で行われた思想差別に対して果敢にたたかった活動家が、老いに直面するプロセスを丹念に描き、ひとつの職場の長いたたかいの歴史の価値を明らかにした。
 主人公がみずからの生き方を回想し、そこから現在に継続するものを発見していこうと意図した作品も多く見られる。草薙秀一「ランドロワ・イデアルから遠く離れて」は、京都の学生運動に生じた逸脱のなかで自死した女子学生の思い出を、現代の学生の求めに応じて主人公が語る。丹羽郁生「飛翔の季節」(しんぶん赤旗連載)は、高校時代から浪人生活をへて就職し、労働組合運動を経験するなかで社会変革の道へと進んでいく主人公を描き、将来への期待と不安との間で悩む姿をとらえた。
 過去の青春が普遍性をもって読者に伝わるためには、その青春の時期の選択のもつ重みと、それがどのように生き方として定着しているのか、「なぜ、今それを書くのか」「今の読者に何を伝えようとするのか」を、説得力をもって描く努力がされなければならない。
 社会のなかに格差と分断がもちこまれ、さまざまな困難を抱えながらも、それでも人間らしい生き方を求めている人たちの姿も、作品のなかにあらわれる。岩崎明日香「青い幟が呼んでいる」「れんげ畑と時計台」と連続した作品は、大学進学を果たすことができる学力の持ち主であっても、金銭的なゆとりがなければ学べない現実を明らかにし、そのなかでの青年の生き方の模索を描いた。第十五回民主文学新人賞受賞作である田本真啓「バードウォッチング」は、祖母の介護のために仕事を変えた青年が家族のきずなを再確認して成長する姿をとらえ、苦しみによりそう姿勢を示した。荒木雅子「まつぼっくり」は、脳性麻痺の娘をもつ母親の苦悩を乗り越えていく姿が描かれた。石井斉「彷徨う蟻」は、統合失調症を病むがためにいわれのない圧迫をうける青年の立場から精神障害に対する社会の無理解をとらえた。教育の場での発達障害の描き方をめぐって論議を呼んだ、渥美二郎「ライク・ア・ローリングストーン」は、自身が発達障害かもしれないという観点から生活を再検討し、よりよい生き方を模索する主人公を通して、人間のもつ可能性を伸ばすことの意味を問いかけた。
 日本の植民地支配とそこから生まれている多くの問題についても、いくつかの作品がある。馬場雅史「廃坑のカナリアよ」は、在日コリアンの高校生が自己の出自に誇りをもつようになる姿を教師の立場から見つめ、青木陽子「Kさんのこと」は、在日コリアンの女性と生活をともにしながらガンに罹患して別れざるを得なくなった男の生き方を、同じガン患者という立場から理解しようとする語り手を登場させた。植民地時代を生きた実在の朝鮮人青年の苦しみに材を得た梁正志「奎の夢」は、日本の植民地支配の無道さを描きだした。
 人生の一つの場面から、その人物の生きてきた過程や抱える複雑な思いを鮮やかに描く短編の良さを感じさせるものもあった。横田昌則「聞き取り」は福祉施設に働く青年の犯したミスを調査する中堅職員の、青年を成長させきれない労働の現実への自省をとらえ、高橋英男「八月のサツキ」は訪問医療を行う医療機関の事務長の立場から介護と医療の現実をみつめ、人間の尊厳をまもるための労働を問い直した。桐野遼「ときどき、不可解」は再婚した妻の視点から、夫が捨ててきた過去とそこからの再生への思いを刻んでいる。その主題をどのように描いていくのか、意欲的な挑戦を望みたい。
 久しぶりに文学活動を再開した東峰夫が「ダチョウは駄鳥!?」で、虐げられながらも自由を求めるダチョウの姿を描いた。このことは民主主義文学運動が、人々の生活に寄り添いつつ人間としての尊厳を求める作家たちのよりどころになり得ることを示している。

 このように、民主主義文学の多彩な世界がかたちづくられている。いま人間の尊厳を傷つけるさまざまな政治的施策のなかで生きづらさを抱えながら生きている人たちに、私たちの創造が本当に届くものになっているのかを問いかける必要がある。自らの狭い体験にとどまっていないか、出来事をなぞることで充足していないか、調査・取材は十分かと、自作を客観的に見つめる眼差しが重要である。また、このことを描きたいという思いを持ちながらも、「自分には描けない」ときめつけ、意欲的な作品を生みだす可能性を自ら摘み取ってしまってはいないだろうか。それらのことを常に念頭に置き、自己批評を徹底させながら描き続けることが、作品創造に求められることである。
 昨年の第二十五回全国研究集会への問題提起のなかで使われた「民主主義文学の多様な発展」とは、それぞれの書き手が、自分の追求してきた課題をより深めていく方向の先に生まれてくるものだろう。過去の時代を振り返ることも、SF的な近未来の世界に希望をみることも、ファンタジーの世界に別の価値観をさぐることも、現代の社会と人間の抱える問題点への批評精神を抜きにしては文学として成立しない。自分がつくり出す作品世界での社会と人間の真実の追求を、書き手が意識し続けることが求められる。
 そのときには、創作の表現や形式についての自覚的な探究も必要になる。自分の主題にもっともふさわしい表現や形式へのさまざまな試みは、創造を活性化させることにもなる。筋の運びや想像力の飛躍や広がりによる作品世界の生動と共に、読者が小説世界を生き直せるような視点をもつ人物と場面の設定などの工夫により、社会や人生の真実にふれる感動を生み出すことが大事である。

 ルポルタージュでは、『民主文学』の特集「福島第一原発事故から七年」のもと、福島のいま、福井の原発再稼働をめぐるたたかい、玄海原発の再稼働差し止め訴訟、避難者の現状についてのルポが書かれた。田島一はIBMのロックアウト解雇をはねかえした労働者のたたかいを記し、中嶋祥子はみずからの雇い止め撤回のたたかいを書いた。髙橋篤子は北海道の大地震の記録を残し、岩井三樹は有明海の干拓事業をめぐる漁民と農民との連帯したたたかいを記している。それぞれの分野での生活破壊の現状とそれに対するたたかいを記すルポルタージュが、求められている。
 今大会期の会員の連載エッセイは、前の大会期に開始されたなかむらみのる「郵便屋さんの作家道」が完結し、続いて奈良達雄の「踏み来し路の一つひとつを」が掲載されている。
 この間の会員の成果がまとめられた民主文学館では、神林規子『竜門の手まり唄』、須藤みゆき『月の舞台』、牛久保建男『時代を生きる作家と文学』、原信雄『クオピオの雨』の四冊が刊行された。

(3)民主主義文学の批評の成果と課題 
 民主主義文学運動における批評の役割は、時代の動向とその本質を現実への批判精神に基づいて見据え、日夜生み出される文学作品が、社会と人間の真実をいかに深くとらえているかを鑑賞、分析し、作品の価値を明らかにしていくことにある。同時に、個々の作品および全体としての創造の課題を明らかにする丁寧な批評により、書き手の創作意欲と文学への情熱を喚起する任務も担うものと考える。
 とくに民主主義文学運動においては、文学運動の創造の豊饒さを促し、全国の支部活動における創造の活性化を生み出し、掲載が可能な投稿作品を多く生み出す重要な役割がある。
 二年間の批評活動では、「特集」のなかで多くの論考が書かれた。「明治百五十年」の特集企画は四号にわたって組まれた。明治百年の折に大々的に明治美化のキャンペーンがはられたその動きを再現させようとする動きに対し、日本近代化の道程の「光もあれば影もある」、そのさまざまな姿をとらえてきたところに日本の近代文学の歩みがあることを、美化キャンペーンへの異議申し立てをこめて検証しようとする企画であった。この企画では会外の研究者との共同の翼も広がった。
 民主主義文学の書き手のものでは、一回目は岩渕剛「近代文学のはじまり―『浮雲』を手がかりに」、尾西康充「政治小説の可能性―矢野龍溪『浮城物語』」、北村隆志「樋口一葉『にごりえ』への一視角―『罪と罰』と『カルメン』を手がかりに」、二回目は、大田努「北村透谷に見るもう一つの『明治の精神』」、成澤榮寿「島崎藤村『破戒』の分析と実証」、澤田章子「軍人・森鷗外の戦争―小説『鼠坂』から」、三回目は、久野通広「反戦の意志が脈打つ木下尚江『火の柱』」、下田城玄「徳冨蘆花『黒潮』『謀叛論』」、和田逸夫「『明治』を漱石はどうとらえ、表現していたか」の評論が掲載された。企画最終にあたる四回目は乙部宗徳「『明治百五十年』を考える」が執筆された。特集中の評論の逐一には触れ得ないが、日本の近代文学が時代と格闘する人間の姿を映し出して来た価値ある遺産を、民主主義文学運動が受け継ぐべきであることを再認識させる貴重な特集となった。読者からも日本の近代文学に汲むべきところ多であったなどの反響が寄せられた。
 「小林多喜二没後八十五年特集」では、牛久保建男「小林多喜二出発前夜―『雪の夜』を中心に」、槇村哲朗「小林多喜二の反戦文学と現代」の二評論、および蠣崎澄子、苫孝二、浅尾大輔、馬場雅史の四編のエッセイが掲載された。三月三十一日に東京・池袋で行われた「小林多喜二没後八十五年シンポジウム」(岩崎明日香/北村隆志/田島一/宮本阿伎)を収録した。
 多喜二特集以外のプロレタリア文学を論じる仕事として、浅尾大輔「中本たか子の心の傷」前編、後編が掲載された。治安維持法違反の容疑で特高警察が中本に加えた拘禁・拷問によって、中本に拘禁性精神病を発症させたことを明らかにしたが、当時、侵略戦争反対や絶対主義的天皇制への異議を訴え治安維持法違反で捕らえられた二十代の若者たちに共通する体験だったことをモチーフとして持つ意欲作だった。他に尾西康充「『工場細胞』論」、岩崎明日香「宮本百合子のリアリズム探究」が書かれた。
 核兵器禁止条約が百二十二カ国・地域の賛成多数によって国連で採択された二〇一七年七月七日の直前には特集「新しい潮鳴りの中で反核文学を読む」を組み、小林八重子「林京子小論」、馬場徹「山口勇子『青葉のしずく』の方法」、松田繁郎「青来有一『爆心』再考」を載せ、その後に載った牛久保建男「小田実『HIROSHIMA』の新しさ」も含めて、日本の反核文学の世界的な意義について時宜を得て再認識させる力こもる諸評論であった。
 情勢との関連では、憲法七十年の年をモチーフとする、北村隆志「大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』と戦後憲法」、尾西康充「目取真俊『魂込め』論―地域における集権主義と〈嘘物言い〉」が書かれ、「教育勅語復活を許さない」の特集では、乙部宗徳「文学・思想から考える教育勅語」が、教育勅語を教材として復活させようとする安倍政権の反動性を、そもそもの成り立ちから説き起こし、文学、思想の面から浮き彫りにした。
 「米騒動から百年」の特集では、井本三夫インタビュー「『米騒動』という大正デモクラシーの市民戦期」(聞き手・岩渕剛)と、馬場徹「生存のたたかいと『米騒動』―堀田善衛『夜の森』の問うこと」、中村光夫「魚津の米騒動の遺産」の二評論を収めた。日本の近代史最大の民衆蜂起と言われる「米騒動」の振り返りは、『民主文学』以外ではほとんど行われなかった。
 また、日本文学の動向論も引き続き課題となっている。二〇一九年一月号からは、現代文学の動向を紹介する「文芸ジャーナル」欄も創設された。
 現代文学の注目作についても、小林八重子「『おらおらでひとりいぐも』論ノート」、松田繁郎「未来への祈り─佐江衆一『エンディング・パラダイス』」、かなれ佳織「対岸ではなく―村山由佳『風は西から』のねがい」が書かれた。また中村文則『R帝国』と黒川創『岩場の上から』を対象として論じた岩渕剛「ディストピアにみえる状況のなかで」も執筆されたが、現代文学の動向について見ていく上でこうした話題作を論評することは重要である。評論家の一人ひとりが積極的に取り組んでいくことを期待する。
 民主主義文学の作品論、作家論は、文学運動の前進にとって欠くことはできない。「長編完結作を読む」では、宮城肇が松本喜久夫「つなぎあう日々」、塚原理恵が橘あおい「一番星みつけた」、松木新が「田島一『時の行路』三部作」、下田城玄が仙洞田一彦「忘れ火」、大田努が能島龍三「遠き旅路」、松本喜久夫が佐田暢子「冬の架け橋」、牛久保建男が柴垣文子「風立つときに」、宮波そらが東喜啓「靴底の傷み」を論じた。乙部宗徳「女性の書き手が向かっているもの」は、竹内七奈、須藤みゆきの作品群に言及した。
 このように特集企画では充実した反面、動向論や作家・作品論については、今後いっそうの努力が求められる。批評の個々の書き手が、現在の民主主義文学全体を鋭く見つめ、何を問題提起するかを常に意識して取り組む必要がある。先にも書いたように、創造の前進にとって批評の役割は大きい。民主主義文学の批評は、その作品が日本文学のなかでどのような意味があり、さらに読者の胸に届くためにはどんな課題があるのかといった点を明らかにしなければならない。文芸時評は、作者が何を描こうとしたのかをよく汲み取り、いわゆる「裁断」や「仲間褒め」に引きずられることなく、客観的な評価と創作上の課題についても、作品と丁寧に向き合い論じていくことが大切である。評者の文学観を述べる場合には、対象作品と関連した見地からの慎重さを求めたい。支部誌・同人誌評は、民主主義文学運動が独自に取り組み、新しい書き手を生みだしてきた、歴史的意義を有している。それぞれの力量を踏まえて、個々の書き手に届く言葉を発するのと同時に、普遍性を有した内容により創作を志す人々が触発される場として、いっそう魅力あるものにしていく努力が求められている。

 「創造・批評理論研究会」は今大会期で二期目を迎えたが、戦前のプロレタリア文学運動、戦後の民主主義文学運動で探究された評価の科学性、リアリズム理論を踏まえた論議が積み重ねられている。社会全体があらゆる分野でゆがみを抱える今日の状況下で、民主主義文学運動が時代と切り結ぶ作品をどう生みだしていくのかという、創造の現代的課題についての理論的テーマについても取り組んでいきたい。
 第十回手塚英孝賞は、谷本諭「『社会主義リアリズム』とは何だったのか―二一世紀の目で考える」(初出『民主文学』二〇一六年五月号)が受賞し、再録された。
 田村悦子「警鐘としての窪田文学」は、評論としては久々の初登場だったが、批評の新しい書き手を生み出すことは文学運動にとっても大事な課題となっている。
 第二十五回全国研究集会での「民主主義文学の多様な発展に向けて」での「本当の面白さ」とは何か、「芸術性」はどのようにして得られるのかの議論を大切にしていきたい、という提起もなされた。批評活動はこうした議論を牽引していく役割をも担っている。


三、文学会組織の到達点と課題

(1)文学会の組織の現状と今後
第二十七回大会幹事会報告は、文学会の存続のために、会員・準会員あわせて千人、定期読者千二百人の到達を築き、新日本図書・普及と合わせて二千八百部の最低採算ラインを超えることの重要性を提起した。しかし、全国の努力にもかかわらず、会員は高齢化や生活の厳しさを要因とした退会者の数を上回ることができずさらに減少している。定期読者も短期間の購読者や連載期間中のみの購読者の中止によって、途中で大きな減少があった。大会を前にした組織拡大の取り組みで、全国の会員・準会員の努力によって、四月末時点では定期読者は千二百十六人と千二百人の目標を上回ることができた。しかし、二十七回大会期の平均実売部数は二千七百部を大きく割り込み過去最低になっている。この組織的到達点の中で、特に会員・準会員の総数が八百九十九人と九百人を切っていることは創造団体として看過することはできない。書き手の減少は、作品創出の多様さが失われて創造・批評を生み出す基盤が崩れ、『民主文学』の誌面をやせ細らせることにもつながりかねない、運動継続を根幹で揺るがす大きな問題となる。
しかし、第十六回民主文学新人賞の募集に第一回に次ぐ百十五編が寄せられ、また、若い世代のなかからも、自ら民主主義文学の門を叩いてくる人が現れるなど、社会と人間の真実を描くまっとうな文学に期待する人びとの存在は如実に示されている。そこにこそ民主主義文学運動を継続する可能性があり、書こうという意欲を持っている人にどのように働きかけるかの議論を深め、前進のための方途を見出していくことが、この幹事会報告の一つの眼目である。

(2)この二年間の活動と教訓
 二十七回大会期の組織活動では、いくつもの教訓が生まれた。
 今大会期には神奈川県の藤沢支部が結成された。また、活動を休止していた福岡支部が活動を再開した。この二支部とも、常任幹事会と協力して文芸講演会を開催したことが契機となった。
折り込みチラシを行って広く会外にアピールし、集会参加者から準会員、読者を拡大し、新支部結成、再建へ道筋をつけていくことは、今期の大事な教訓である。新支部結成や再建のためのチラシ代や折り込み料については組織活動強化募金からの援助が可能なので、積極的に事務局まで相談してほしい。
 福岡支部の文芸講演会の際は、福岡市とその周辺の市町村へのチラシの折り込みを行ったことが、効果を発揮した。さらに奈良達雄「踏み来し路の一つひとつを」、窪島誠一郎「『無言館』の庭から」の連載エッセイの定期読者の獲得でも大量宣伝の効果がはっきり現れた。二人の筆者は地元でよく知られていることから、連載エッセイのカラーチラシを作成し、それぞれ茨城県、長野県の全域の「しんぶん赤旗」日刊紙・日曜版に折り込みをした。その結果、両県とも数十部の新たな読者を得ることができた。そのなかには、文学会会員や支部のすぐ近くにいて、これまで勧めたことのなかった人から、気軽に購読してもらえた例がたくさん生まれている。これは民主主義文学会の近くに、購読を呼びかけられる対象者が多く存在していることを示している。連載企画については、定期読者を獲得する重要な機会として、執筆者の協力も得て、効果的な宣伝を行い、可能性を汲み尽くす努力を行う。
 宣伝では会津支部で、支部誌の発行に向けて、「原稿募集チラシ」を作成し、準会員を拡大した。
 前大会期には佐賀支部、東京東部支部、大阪北支部が結成されたが、その三支部すべてで新たに支部誌を発行し、地域の文学的創造力を集めて活動を開始している。そのなかで佐賀支部の支部誌から改稿を経た『民主文学』への登場作品が生まれた。また、新たに支部誌を発行した会津支部の準会員の作品が、『民主文学』に掲載された。新しい書き手が生まれることは、文学会の運動を引き継ぐうえで欠かせないことである。小説を書きたいという思いを持っている人は、支部の周りにたくさんいる。そうした人たちに声をかけられるように、文化関係の集いなどでの宣伝も含めて強化していく。
 新たにつくられた支部で、支部誌の発行が進む一方、支部誌を年に数回発行していた支部の活動が困難に陥る例が生まれている。これらの支部の支部誌発行に向けた努力は貴重であり、全国の支部を励ましていたが、現在の困難の直接的な要因としては支部誌で結びついた人たちに、準会員、読者になってもらう働きかけができていなかったために、書き手の層が広がらなかったことがある。その背景には、支部の例会が支部誌の合評に時間をさかれ、『民主文学』作品の合評がおろそかになっていたことがあり、民主主義文学運動に参加しているという自覚の弱まりにより狭さを克服できなかったとの反省も聞こえてくる。民主主義文学運動が、一九六五年の創立以来、運動を継続できているのは、『民主文学』を一号の欠号もなく発行し、それを軸として、常に新しい書き手を増やし、育てることで運動を続けてきたからである。『民主文学』を中心にした文学運動の広い裾野ともいえる支部誌の存在は、歴史的にも試されてきた私たちの運動の特長である。『民主文学』の作品を合評し、そこに投稿しようという人を広げることこそ、運動を持続させる最大の保障である。
 もちろん民主主義文学会は、会員が個人として参加することにより成り立っている組織である。会員一人ひとりが、創造・批評の先頭に立ち、準会員、読者を広げながら文学運動が継続されてきたのは自明のことである。この二十八回大会を前にした取り組みでも、支部に所属していない会員が、新しい読者を拡大する動きが目立った。新しい書き手、新しい読み手を増やすことに、会員も支部も力を尽くすことによってこそ、文学運動の継続は可能になる。そのことを肝に銘じたい。
 第六回若い世代の文学研究集会には、初めて参加する人がかつてなく多かった。これは若い世代自身のつながりを活かして呼びかけが行われたこと、若い読者を持つ「民主青年新聞」や『学習の友』誌にも広告を出したことの成果である。この研究集会では新たな準会員が三人生まれた。作品へのリスペクトをもち、作者が何を描こうとしたのかをよくつかみ、率直かつ節度をもって意見交換し創作に生かすという姿勢が、各分科会での合評に貫かれていた。こうした合評の進め方は、若い世代が参加してくるうえで大事なことである。研究集会の場以外でも、最近、若者が自ら民主主義文学の戸を叩いてきている。これらの実態からも、若い世代のなかにおける前進は可能であることに確信をもつ必要がある。
 若い世代の層を厚くすることが、文学運動を次代に引き継ぐために急務である。そのために若い世代の文学研究集会は毎年開催としたい。日常的に文学会が組織として、若い世代に文学を通したつながりをつくること、ホームページの抜本的な改善とSNSの積極的活用、青年組織や労働組合など民主的諸団体などとの結びつきをどうつくっていくかが今後の課題となる。非正規雇用が増えている若い世代にとって、受講料が小説を学びたいという要求の障害にならないように、必要な措置を検討したい。
 今期は首都圏、関西、四国、東北、東海、九州で支部代表者会議や会員・準会員を対象にした会議を開催した。常任幹事会が支部の実情、声を常時把握し、そこにかみあった提起をしていくことを大事にしていきたい。また、文学会の組織の現状を率直に伝えていくことも大事になる。関西の会員・支部代表者会議をはじめとして会議の開催以降、参加者が相次いで拡大で成果をあげ、支部例会でも討議が広がった。また、昨年九月以降、毎月発行した「文学運動ニュース」で運動の到達と経験が伝えられ、それが全国の支部で討議されたことが大会前の前進につながった。

(3)支部活動活性化など運動の強化の方向
 民主主義文学会では、多くの会員・準会員は支部に所属している。
 支部は、「定例の会合や支部誌の発行などを通じて相互批評と研鑽を積み、創造・批評の力を高め、本会ならびに民主的文学運動をひろげていく役割」(規約十二条二)をもっている。文学を愛し、読み、書きたいと願う人ならだれもが参加できる組織としての文学会を考えたとき、全国各地の身近な場で活躍する支部の存在は貴重である。
 現在、文学会の支部のない都道府県は、群馬、福井、滋賀、島根の四県である。そこにあらゆるつながりを生かして、支部結成をめざす。同時に、全国の支部のなかには支部員の減少、高齢化、固定化とも相まって、例会を開催できないところや、実態をなくしているなどの困難を抱えたところが少なからずある。困難支部に対して、実情をよくつかみ、幹事会と一体となって困難を打開する方策を考え、援助を強めたい。
 大都市など条件のあるところでの新支部づくり、支部再建を意識的にすすめる。昨年九月に開催した関西会員・支部代表者会議では、大阪市のなかに文学運動を広げていく必要が提起された。政令指定都市の会員、読者比率は、有権者百万人当たり一四・四と全国平均の一九・九より下回っている。しかしこれは、文学運動を広げる可能性を示しているものでもある。現在、仙台支部の再出発、広島支部の再建に向けた動きなどが始まっている。文芸講演会の開催など、この間行ってきた方法を参考に幹事会と協力して積極的に進めたい。すべての支部の支部誌の発行を実現するために、困難をかかえる支部、新しい支部への具体的援助を強める。
 私たちの文学運動は、『民主文学』を中心に進められることをあらためて確認したい。文学会は「作家・評論家を中心とした」専門団体であり、その作品創造の発表の場として『民主文学』がある。『民主文学』は、全国的〈文芸総合雑誌〉の一つとして、作者・作品名も含めて日本文藝家協会が発行する『文藝年鑑』でも詳しく紹介されている。全国文芸誌『民主文学』にすぐれた作品を掲載することは、日本文学全体の発展につながっていくものであり、志高く向かって行かなければならない。
 一方で少なくない支部から、「支部誌に作品を発表することと『民主文学』に掲載されることとがどう違うのか」と問う声もある。どちらも〝自分たちが作る文芸誌〟であり、支部誌の充実は魅力ある『民主文学』に連動していく。支部誌に書くことで充足せず、一歩進んで『民主文学』に掲載可能な創造の高い峰をめざすことが大事である。そうした努力の蓄積が、自身の創作力の向上につながっていくことを肝に銘じたい。そして支部誌とともに自作の登場する『民主文学』を、多くの人に読んでもらえるよう働きかけよう。そうすることで支部活動が仲間うちだけの狭さに陥ることなく、より開かれたものとなっていく。
 支部活動の活性化のためには、とりわけ『民主文学』の掲載作品をよく読み合評し、それを自分の創造に活かすことが大事である。
 作品合評を実りのあるものにするには、作者をリスペクトし、率直かつ節度をもった批評を行い、創作に活かすことを心がけたい。作者が何を書こうとしたのかを題材・モチーフ・主題に沿ってつかみ、その主題を表現するための主人公、登場人物の設定はどうか、文章、言葉の表現はどうかといった視点で話し合うと、論議が散漫にならず、印象批評に陥ることを避けることができる。
 芥川賞作家を生み出したカルチャーセンターでも、受講者がお互いの作品を読み込んで意見をのべる「相互批評」を重視していたことが話題となっている。
 新たに文学運動に参加する人たちには、合評と共に、より切磋琢磨して創作力も向上できるという魅力をアピールし、みんなが楽しく活躍できる支部活動をめざそう。
 同時に毎月行われている「作者と読者の会」は作者も参加して、対象作品をどのように読んだか、どう描かれたかについて論議できる大事な場になっている。これにはインターネットTV電話を使って全国からの参加も可能であり、その討議へ参加することによって、支部での作品合評の在り方を研究することもできるし、創造・批評の力量向上の機会とすることもできる。ぜひ、多くの人が積極的に利用してほしい。
 創作力向上をめざす人に応える取り組みとして、創作研究会(支部誌掲載前の合評会)など、支部独自に行われているところもある。支部誌への作品掲載だけでなく、さらに『民主文学』への掲載可能な水準まで創作力を向上させる取り組みも求められる。今後、そうした経験を『民主文学』誌上で交流できる企画も考えていきたい。
 また、各地の支部が協力して、文学教室・創作専科の共同開催も積極的に進めていく。今期も北海道、九州ではミニ専科を行い、好評だった。新しい支部などの場合は、旅費や講師料についても、組織活動強化募金から支出するなど、地域の実情に応じて支援を行っているので、臆せず相談してほしい。
 各地の文学研究集会は、創造の力量をつけるうえでも貴重な場である。さらに文学に関心のある人も参加できるよう改善していく。
 シニア世代のなかでは、人生の節目を意識し、何かを書き残したいという要求をもつ人は多い。新たに加入する層の中心が、六十、七十代となっている現状を踏まえて、魅力的な「心さわぐシニア文学サロン」の開催を含めて、文学を愛好する広範なシニア世代の結集をはかりたい。
 創作研究会では、文学教室、創作専科、土曜講座、山の文学学校、文学散歩を継続的に開催するなかで、新しい準会員、読者を増やし、『民主文学』に登場する書き手も生み出している。

(4)『民主文学』の編集について 
 民主主義文学運動の前進のために、『民主文学』をより魅力的な雑誌とすることは、時代の要請でもある。
 今期は、投稿規程を改定し、支部誌に一度掲載された作品でも、合評などを受けて改稿した場合には投稿の受け付けを可能とした。支部誌・同人誌委員会が注目した作品を推薦することと合わせて、会員・準会員の創造成果全体を誌面に反映させることを意図した措置である。積極的な『民主文学』への投稿が基本であることはいうまでもなく、編集委員会は常に新たな書き手の誕生に力を尽くす。
 今期の編集では、時代状況を照らし出すこと、あるいは時代の本質を検証することをねらい、「特集」を比較的多く組み、これに関連して会外の書き手に積極的に執筆を願った。会の内と外とで共同した努力は、誌面を充実させ、『民主文学』の存在価値を世に示したと言える。さらに編集企画の充実に努力する。
 新しい購読者を得ながらも、それがなかなか定着できないという現状は、作品、企画が読者からの要求に十分応えきれていない側面があることも認識する必要がある。全国の会員・準会員が力のこもった創作・批評を寄せるとともに、編集部、常任幹事会はいっそう魅力ある雑誌をつくるために力を注がなければならない。
 現在の状況は、連載に伴う読者を獲得できなければ、二千五百部の実売すら割りかねない事態を示している。これでは発行のたびに赤字を累積することになる。会員・準会員の会費も含め、『民主文学』の定価は、一九九七年九月号で八百二十円から九百七十円に改定して以降、経費削減の努力によって、この二十一年以上値上げしてこなかったが、難しい選択をせざるをえない状況に直面している。読者を定着させ、準会員を増やすことにより、この状況を打開できるかどうかがいま問われている。

(5)二〇二〇年創立五十五周年、二〇二一年百合子没後七十年 
 二〇二〇年に迎える創立五十五周年、並びに二〇二一年の百合子没後七十年記念行事は、開催する方向で検討する。

(6)次代に文学運動を引き継ぐために
 今期の会計は、会員会費・準会員会費・定期購読料とも固く組んだ予算を上回り、一定の繰越しもできている。しかし、その内容は、会費等の前納に協力いただいた分が反映されたことによるもので、それらを除くと実質は会員・準会員・読者とも一割程度のマイナスになっており、収支も赤字になっている。民主文学頒布費は、五十周年記念秀作選が刊行された前大会期を上回り、過去最高となっているが、会員・準会員の分も含めた文学会売上げでは長期低下傾向は一貫している。文学運動を次代に引き継ぐためには、組織拡大に総力をあげて取り組み、会員・準会員あわせて千人、定期読者千二百人で新日本図書と普及の六百部を合わせて、二千八百部の最低採算ラインを突破し、それを維持し続けると共に、英知を結集して経営改革を進めなければならない。
 出版の不況が続いているなか、とくに雑誌(「紙市場」)は二〇一七年一〇・八パーセント減、二〇一八年九・四パーセント減と二年連続で二けた減にちかい減少となっている(公益社団法人全国出版協会・出版科学研究所HPより)。文学会の会員読者の減少傾向も、大きく見れば少子高齢化のあおりや生活苦などの影響を受け、支出の切り詰めを余儀なくされている結果ともいえよう。このような状況下で、自力発行を維持していることは大いに評価できる。しかし、取り巻く環境は厳しさを増し、振込手数料、用紙代など会運営、出版諸経費の値上げが予定されるもとでは、引き続き抜本的な経費削減努力を行うことが求められる。
 一方、厳しい状況下であっても、減少から拡大に転じるための積極的施策に基づいた必要な出費は避けられない。会全体の高齢化が急速に進行していることからも、『民主文学』の質の維持向上と、会員、準会員、定期読者の維持拡大につながる大胆な経営改革を怠ることなく、可能なものについては速やかに実行する必要がある。
 「紙市場」が減少傾向にあるのに比べて、「電子市場」は出版市場全体の一六パーセント程度だが増加傾向にあり(同HPより)、『民主文学』の運営もこうした変化を考慮に入れる必要があるだろう。情報源としてのインターネット(パソコンやスマートフォン)の役割が大きな位置を占めてきている。ホームページ(HP)の充実や、HPによる購読など、よりいっそうこの方面での宣伝・販売について工夫、研究を行う。

 文学会の組織を次代に引き継ぐうえで、なお厳しい状況は続いているが、この二年間の活動のなかに貴重な経験が生み出されている。激動の時代に切り結び、社会と人間の真実を描く私たちの文学運動を前進させるために力を尽くそう。
 以上

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